1. 光に誘われて
その日は気象庁が関東地方の梅雨明けを宣言した朝だったが、数週間降り続いた長雨のせいで、まだ細かい細かい雨滴がベールのように町を覆っていた。その上から容赦ない陽射しが照り付けているといった状態で、窓を開けても熱風しか入って来ない。ぼくの体はすっかり錆付いてしまったようで、朝のすべての動作に不必要な時間を要し、朝食を諦めたにもかかわらず、いつもの急行列車に乗り損ねてしまった。
しかたなく次の準急に乗り、いつもとは反対のドアの前に立って流れる風景を眺めていた。急行であれば仕事場のある駅まで止まることはないのだが、今日は、い くつもの駅に止まった。見慣れているはずのホームの景色が全く違う親近感を持ってそこにはあった。流れる景色も毎日通っていたはずなのに、初めて見るものばかりだった。
その時、遠くでピカリと光るものを見つけた。光は不定期にピカリと光る。列車はどんどんその光へ近づいていたが、それでも何が光っているのか全くわからなかった。
やがて駅に停車した。 光は駅からの距離だと約1kmほどはあるだろうか。次の停車駅はぼくが降りるべき駅なので、思考力でさえ無駄な力はできる限り使わずに、駅から仕事場までのダッシュか、遅刻の謝罪とその罰への労力に温存しておきたかった。しかし、その光はぼくのすべての興味と想像力を奪っていった。ドアの閉じるメロディが流れ、駆け込み乗車を阻止するためのアナウンスが流れ、ドアが閉まる直前に、ぼくは列車から飛び降りた。サボタージュなど、今までのぼくの人生にはありえないことだったのに、いつもと違うのはあの光のせいだ。
駅のホームはまだ朝だというのに、すでに息苦しいほどの空気を抱えていた。これから、多分約1kmほど、この熱気の中を歩くことになる。それでもあの光が何なのか近くで確かめたい熱情のような興奮と、決して崩すことができないと思っていた日常からの逃亡を実行した自分への興奮で、この時点では、ぼくは最高に幸せな気分だった。
朝まだ早い時間のためシャッターを下ろしている店が大半で、店の前に出されているゴミ袋をカラスがつついていた。 駅へと急ぐ人の流れに逆らいながら、ぼくは時々立ち止まって天を仰ぎ、あの光の方向を確認した。 ずいぶん近づいたのだろう、その光源はすでに視界には入らない位置にあるようで、天へ放たれた光の尾だけが時折、眩しい空をさらに明るく照らしていた。
駅に吸いつけられるように密集していた商店が、いつしかまばらになり、やがて風景は住宅地へと変わっていた。風はほとんどなく、少しづつしかし確実に高度を上げている太陽からは容赦ない熱が注がれてくる。合わせてその熱を吸収して吐き出すアスファルトからの息で、朝飯抜きの体はこんな突拍子もない行動に早くも反発を覚え始めていた。
そんなとき、どこからともなく梔子の香りが漂ってきた。
「梔子の季節はもう終わっただろうに……」
ぼくは自宅のマンションに植えられている梔子の花が、すっかり茶色に変色してしまっているのを数日前に確認していた。陶器のように真っ白で妖艶な美しさをたたえていた花が、その時期を終える時に花を落とすことなく醜く朽ちていくことが、この春、別れたユキエに似ていると思ったのだった。椿や櫻のように潔く散るほうが、花は美しい。
ただ、流れてくる甘い香は、この熱気にとても相応しかった。遠い異国に迷い込んだような錯覚を誘う。それにこの香りは、あの朽ちかけた茶色の花が放つものとは違う感じがした。広い道から細い路地へ曲がったところに梔子の樹はあった。そして梔子の樹の背後に小さなカフェがあった。
ぼくはふと、子供の頃に読んだ物語を思いだした。主人公が森へ迷いこみ、帰り道を探していると、どこからともなく甘い香が流れてくるのだ。その香に導かれるように森を進む主人公に、<だめだ!だめだ!そっちに行っちゃだめだ!>と、心の中で叫び、ひどくどきどきした。何のお話だったのか、主人公がその後どうなったのか、さっぱり思いだせないのだけれど、その場面と、どきどきした気持ちだけが、突然によみがえってきた。
光を確かめようと見上げると、正にちょうど真上で光っている。ぼくは熱気から逃れるためにも、あるいは梔子の香りに引きずり込まれたのかもしれない。とりあえずそのカフェのドアを開けた。