2. 鉱物・標本カフェ
カフェのドアを開けると、ちりりんと涼しげな音色が響いた。それを聴いて店の奥から初老の男性が出てきた。このカフェのマスターだろう。その時、ぼくはあのお話の続きを思い出した。<そうだ。あの話。主人公は魔法使いの店に辿りついてしまうんだった。>
「いらっしゃいませ。」
マスターは大きな氷の入ったグラスをテーブルに置いた。ひんやりとした空気が漂う店内を見渡すといたるところに青色や白色の鉱物が置かれている。魔法使いの店ではなさそうだけれど、それでも、小さな店内のいたるところに様々な石が置かれている光景は独特な雰囲気を生み出している。いや、それは置かれているとか展示されているというより、石たちが思い思いに「そこに居る」という風だった。 珈琲の香がたちこめていなければ、ここがカフェであるとはきっと誰も思わないだろう。
カウンターは以前は通常の使われ方をしていたのであろうが、現在では大小さまざまな箱や壜が並べられていた。ひんやりとした店内の空気は、ぼくの、すっかり上がってしまった体温を下げ始めたが、それでももっと冷静になりたくて、
「何か冷たいものを」
と、注文をして、席には座らずに、カウンターの上の箱を一つ一つ見ていった。
箱は紙でできているものもあれば、木で作られているものもあった。硝子壜やドーム状のものもある。古い外国切手を背景に透明な石と歯車が配置されている箱の隣には、雪に埋もれた真っ白い小さなうさぎが入れられている壜が置かれ、細長い標本壜には海月がぼおっと青白く光って浮かんでいた。カウンターの隅の小さな箱をのぞきこんだとき、ぼくは息が止まるほど驚いた。そこにはユキエがいたのだ。古い木材で組み立てられた小さな箱の中に無数の水晶が生えていて、その隙間に俯いたユキエが確かにたたずんでいた。彼女はまだぼくに気づいていない。ぼくは慌てて席に戻った。
「うちは鉱物カフェなんですよ。……あ。標本カフェっていったほうがいいのかな。」
マスターは運んできたグラスをテーブルに置き、ぼくに言った。
ぼくは椅子に座ってあらためて店内を見渡した。非日常の時間の中に居るせいだろうか。店内に流れる時間も空気も外界と隔てられているような感覚だった。壁にかけられている振り子時計は時を刻んではいなかったが、ぼくは以前、その時計を見たことがあった。もちろん、古い時計なんてみな似たようなものだし、時計の細かいディテールをいちいち記憶しているわけではなかったから、単に、古いものを見て懐かしくなっただけなのだけれど、そんな気がしたのだった。
カフェの窓からはあの梔子の樹が見える。カフェの前の道をはさんで、その向こうには大きな欅の樹が鬱蒼と枝葉を延ばし、小さな森のようになっていた。 高い繁みから見たことのない鳥が飛び立った。しかし、不思議と店内に音は届かなかった。音楽も流れていないのだが、時折、古いレコード盤をかけたときのようなチリチリという音が耳に入ってくる。
(何の音だろう……)
耳を澄ましていると、マスターが
「聴こえますか?」
と、声をかけてきた。
「グラスの中の氷。氷河の氷なんです。太古の昔に降った雪が圧縮されたものなので、その雪に含まれていた空気が今、解き放たれているわけ。ぱちぱちっていうのはその気泡が弾ける音ですよ。」
ソーダ水の炭酸が弾ける音よりもはるかに小さく弱い音だが、確実にグラスの中で太古の空気は生まれていた。店内に流れる時間がドアの外とは違っている気がするのは、こんなことが原因なのかもしれない。
「その氷は大昔の雪の標本というわけです。」
(そうか。標本カフェなのだもんな。)
窓の外はさらに気温を増しているようだったが、ぼくは時間の止まったような店内で一人不思議な香りのする飲み物をすすっている。さきほど見たユキエの標本がまぶたの裏でチリチリと音を立てていた。